[読書] ソシオパスの告白

精神科医や心理学者が書くサイコパスの本はよく見かけますが、ソシオパスの告白は、ソシオパス(反社会的人格)と診断を受けた本人による告白本です。こう聞くと、獄中記を思い浮かべるかもしれませんが、違います。著者は元弁護士であり、現在は大学教授を務める社会的な成功者です。

さて、ここでは、サイコパスとソシオパスという二つの言葉を使いましたが、両者の違いをWikiで見ると、サイコパスは先天的であり、ソシオパスは後天的であるとされています。この定義が正しいのだとすると、誰もが後天的な環境次第でソシオパスになりえるということになります。そうであるならば、一体この「後天的」とは何を指すのかが非常に気になります。この疑問にソシオパスの告白は、ひとつの答えを与えてくれる内容となっています。

この記事では、幼少期とその影響を本人が分析したものを中心にまとめていますが、本の中では遺伝子や脳など、先天的なものもでてきますので、そちらに興味があるかたも興味を持って読めると思われます。

抜粋

幼少期、両親との関係

両親の感情が不安定だったため、私は自分を守るには、誰にも頼ることはできないことを学んだ。他者に安定を求めるよりは、自分自身を頼りにすることを学んだ。他者との交流は避けられないので、私は必然的に他者を操ることを学んだ。(p.89)

両親は私たち(とくに私)にした最悪のことは、時には態度が一貫していなかったり、時にはあまりにも優しすぎたりしたことだった。子どもの頃、私が理解していたのは、原因と結果ということがすべてだった。もしも私や兄姉妹が決まりを破ったのに、都合よく泣いて、罰を逃れたと感じたら、決まりを守るよりは、同じことを繰り返しただろう。私は実験動物のように条件付けを素直に受け入れて、褒美をもらえるならばレバーを押し、何も手に入らないならばレバーを押すのを止めることを学んだ。(p.300)

人間関係への考え

私は彼らの期待と戦うのではなく、それを弄ぶ。(中略)私は特別なやり方で彼らを導いて、たった一つの結論、すなわち私の結論に達するように仕向ける。彼らは自分たちが最後にはどこに着くのかわかっていないのだが、それこそがスリルの一部でもある。(p.217)

私は誘惑しようとする人に的を絞り、私が勝ったとわかると、すぐにその獲物を手放す。私はそれをまるでスポーツフィッシングのように考えている。魚を釣るのが楽しみなのであって、内蔵を処理して、魚を料理することではない。だから、魚を釣って、それを元に戻して何が悪いのだろうか?(p.264)

世界中のほとんど全員に、食欲や衝動、引き金となる感情、利己主義、表面からは隠された欲望がある。(p.315)

他者に与える印象への自己分析

私は誘惑が容易になるように仮面を磨く努力をしている。人々は私の自信に惹きつけられるのだが、本当に人々を魅了するのは、私には独特な魅力があり、彼らがこれまでに出会った誰とも似ていないように見えるからである。(p.264)

私の話し方には、奇妙に、低く、母音を物憂げに引っ張るような特徴があり、これは兄姉妹や両親にはない特徴である。その元がなんであるかわからないが、自分自身の声に知らず知らずに聞き入ってしまう傾向があり、次第にこのような話し方になってきたのだろう。(p.234)

愛について

セックスと愛を混同しないように注意しろとはよく言われるが、私は愛を理解と混同しないように注意すべきだと考えている。私は相手の魂のすべての言葉を読み、それを深く研究し、すべてのニュアンスや細かい点まで理解しようとする。(中略)しかし、その作業を終えると、まるでそれを新聞紙を捨て去るかのように、放り投げてしまう。インクの染みで汚れた指先を見つめながら首を振るようなものである。相手のすべてを知りたいという私の願望は嘘ではないが、相手に対する関心は愛ではなく、それを永遠に約束したりしない。(中略)誰も私を信じる必要などないのだ。(p.268-269)

(前略)私は自分自身を愛しているのだが、モーガンを愛する可能性について考えたことは一度もなかった。彼女はつねに私の獲物であった。誘惑というのは、自分自身の魅力を自己確認するものであり、獲物を増やすということではない。誘惑は私自身に対する愛情に注ぎ込む燃料であるのだ。(p.274)

ほとんどの心理学者がソシオパスは愛することができないと考えているが、この説は私には愚かなものに思える。ただそれが異なる種類の愛で、より計算や自己意識に基いているからといって、その存在を否定することはできない。この誤解は、愛する能力は善行の一形態であり、自己中心的というよりは、むしろ無私から生じる純正の天賦の才だという幻想から生じている。(p.284)

(前略)いかなる理由であれ、私の姪の存在を高めるのは私には喜びである。姪を喜ばせるためには何でもしたいと思い、私はわくわくするような、明るい幸福感に包まれる。それに対して、歓喜、恍惚、どのような言葉を用いても構わない。皆がこのように感じたがっていて、ソシオパスも同じである。(p.285)

自己について

私はつねに二年単位で生きている。それ以上の期間に及ぶものは私にはあまりに不安定で、基本的に可能性のあるものとしては受けいられない。(p.41)

私は厳正な事実を伝えるメッセンジャーに過ぎないという点である。(p.218)

私は外見上は自信満々で、オープンであるのだが、心の中では、悪意に満ちていて、孤独で、他者とどのように関わったらよいのかわからなかった。私は善良な人間でありたかったが、悪ぶることしか知らなかった。私は本心を偽ったり、規則を破ったりすること以外の方法を知らなかった。(p.219)

私はあるがままの自分が好きだ。戦略的で、無慈悲で、効率的で、どうような状況も有利に活用できる自分が好きだ。私には友達がいるし、家族を大切にしているし、同僚との仲もよい。それでも、私は人生で何かが足りないと思うことがしばしばある。それは愛だろうか? 人間の理解だろうか?(p.323)

サイコパスはあなたが考えているほど単純ではない。それは邪悪と同義ではない。(p.327)

感想・まとめ

抜粋したものを見ると、なんとも恐ろしい印象です。できることなら付き合いを避けたいとまで思うでしょう。ところが、著者は自分がソシオパスだと告白したときのことをこう記しています。

私が人前で自分がソシオパスだと初めて(そしてそれ以来つねに)気楽に打ち明けた時のことだった。(中略)誰も問題とは考えなかった。(中略)私は真実を語るが、誰も私のことを信じない。(p.241)

「信じない」をどう解釈していいのかは分かりませんが、著者が社会的な成功者であることを考えると、冗談と受けとめられるということでしょうか。また、他者をそうさせるものが、サイコパスやソシオパスの定義で必ず登場する「魅力」なのでしょうか? では、その「魅力」とは一体何なのでしょう? 著者はソシオパスの魅力をこう語ります。

(前略)私は自ら正義を実現させるような映画が好きだったが、悪漢に声援を送ることが多い。(中略)悪漢を愛するのは私だけではないと知っている。悪漢の中に、私たちは自由を見て取るのだ。おそらく、だからこそフィクションの世界ではソシオパスがこれほど頻繁に描かれるのだろう。(p.325)

たしかに、人気のある悪役はたくさんいますし、この指摘は事実でしょう。ですが、その悪漢はヒーローがいてこそ成り立つものだと個人的には思います。とは言っても、映画とは違い、現実世界での立ち位置の判定基準はものすごく曖昧で恣意的です。ソシオパスとは、そんな曖昧で理不尽な世界に、限りなく合理的に適応した結果だと言えるのかもしれません。それを後天的と言うのであれば、問題の対象は何になるのでしょうか。

もしソシオパスの子どもをモンスターではなく、神童のように扱うならば、独特な才能を社会が受け入れられる活動へと発展させていき、反社会的行動や寄生的行動ではなく、社会に利益をもたらし、社会を支える行動に導くことができるだろう。(p.318)

私と同じような人々に、彼らに孤独ではないと知ってほしい。そして、すべての人々に、私は自然の人間の変種であることを知ってほしい。私は仮面を脱ぎたいのだが、それは、世界を私にとって安全な場所にしてからだ。(p.333)

CONTENTS
  1. 抜粋
    1. 幼少期、両親との関係
    2. 人間関係への考え
    3. 他者に与える印象への自己分析
    4. 愛について
    5. 自己について
  2. 感想・まとめ